「私の護憲論」第一弾 月刊現代2007年7月号

昨年の八月十五日、私は東大の安田講堂で「八月十五日と南原繁を語る会」というシンポジウムを開催しました(主催は同会実行委員会。代表は私と佐々木毅元東大総長、石井紫郎元東大法学部長の三人)。そこから話をはじめます。
  そのとき話したことですが、「なぜいま南原繁なのか」というところからいきます。南原繁は戦後最初の東大総長をつとめた政治学者です。この人は「戦後日本」という新国家のフレームワークづくりに、いちばんといってもいいほど大きな影響を与えた人です。
  どういう影響かというと、日本人全員が茫然自失状態におちいり、「いま自分たちはどこにいるのか」という基本的位置づけができなくなっていたあの大混乱期に、いま我々がいるのはここだ、これから進まなければならないのはあちらの方角だ、と明確なチャートを示してくれた人です。
「戦前の日本を支配していた『偏狭な民族宗教的精神世界』から脱却せよ。そして世界中で普遍的に信奉されている『人文主義的人間性理想、つまりヒューマニズム』の上に、新生国家日本の文化を築き直すべし」と主張した人物です。
  そのように頭の中を切り替えることができたら、日本はかつてなく素晴らしい国に生まれ変わることができる、と茫然自失の状態にあった日本国民を鼓舞したのです。また、そのような新国家の理念を具体的に実現していくべく、貴族院議員として(戦後すぐ学識経験者として天皇の命令=勅命によって貴族院議員になった)、新憲法の制定、教育基本法の制定などにたずさわった人です。つまり、文字どおり戦後日本の基本的なレジームづくりに深く関与した人で、いわば新生日本のファウンディング・ファーザーといっていい人物です。
  安倍晋三首相が、総理在任中の日本国憲法改正を自分の最大の政治目標にかかげ、その目標めがけてしゃにむに突っ走ろうとしているのは周知のとおりです。
  それどころか、憲法改正にかなりの時間が必要だということがわかってくると、憲法改正を先取りする形で、集団的自衛権の解釈を再考する有識者会議を立ち上げたりと、やたらにことを急いでいます。
  私は昨年、月刊『現代』に「岸信介のDNAを継ぐ男(安倍晋三)」と「南原繁の思想を受け継ぐ者」との本格対決がはじまると書きました(〇六年一〇月号『立花隆 安倍晋三「改憲政権」への宣戦布告』)が、いままさにそうした事態が現実になっているのだと思います。
  日本の戦後レジームを全否定するような人物が首相になり、戦後レジーム全体を、首相自らが先頭に立って丸ごとつくり直そうとしているのを見ていると、本当にこれでいいんですかと日本人全体に問いたくなります。
  そこで、今日はいろいろと憲法の話をしようと思います。言うまでもなく、憲法こそがその国家の基本的枠組みを決めている最も重要な規定集です。要するに、戦後レジームの基本は憲法に書かれているんです。新憲法イコール戦後レジームです。だから戦後レジーム否定論者の安倍はなんとしても憲法を改正したいと望んでいるわけです。
 

日本国憲法を論じる上で必須の文献
 
  最初に、南原繁と憲法についてこれから語っていく上で必須の文献を何冊か紹介しておきたいと思います。
  まずは昨年のシンポジウムの内容を一冊の本にまとめた『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』(東大出版会)です。この本には、後でふれますように、南原が憲法九条について詳細に論じた「第九条の問題」が収録されています。
  続いて南原の生前の演説や論文を一冊にまとめた『文化と国家』(東大出版会)です。この本に「憲法改正その一」「憲法改正その二」という項目があります。これは、南原が貴族院議員として新憲法づくりに直接関与した時の質問演説などを記録したもので、南原が新憲法のどこをどう問題にしていたかがよくわかります。
  日本国憲法成立の過程については、当時、内閣法制局長官としてその任にあたった入江俊郎が書いた『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題 入江俊郎論集』(第一法規出版)があります。事務方のトップとして実際に作業にあたった人の本だけに、憲法成立の経緯が細かく裏の裏まで記されています。
  経緯についてそれよりもっと詳しいのが、当時、入江のすぐ下で実務にあたった佐藤達夫(後に法制局長官、人事院総裁)が書いた『日本国憲法成立史』(有斐閣 全四巻=ただし第三巻、第四巻は佐藤達夫の遺稿を佐藤功が補訂した)があります。あの憲法は占領軍当局が草案を書き、それをベースに日米両国の事務方の代表者が、徹夜の膝詰め談判で一条一条詰めていったわけですが、佐藤達夫はそのときの日本代表です。生のやりとりが詳細に記録されています。
  いっぽう、連合国側の資料から憲法成立の過程をつぶさにたどったのが、『日本国憲法制定の過程 連合国総司令部側の記録による』(有斐閣 全二巻)です。日本国憲法の成立過程を詳しく知ろうと思ったら、まずはここに列挙した三冊の本を読むというのが常識になっています。
 

本当の終戦日が八月十五日ではない理由
 
  それでは、憲法の成立過程に話を進めます。
  国立公文書館で、「再建日本の出発 1947年5月日本国憲法の施行」という資料展示会が行われていたので見てきました(注・五月二十二日で終了)。日本側がつくった「憲法改正草案」や、マッカーサー連合国軍最高司令官が日本側に渡した、いわゆる「マッカーサー草案」をはじめ、議会での修正記録、公布された憲法の原本など、公文書館が所蔵している、日本国憲法にかかわるあらゆる現物の資料が展示されていてたいへん興味深いものでした。
  しかしちょっと変だと思ったのは、この展示会で「再建日本の出発」という日本国憲法成立の流れを年表風に記した部分があったのですが、それが一九四五年八月十五日、つまり終戦の玉音放送から始めていたことです。
  新憲法の歴史はあの玉音放送からはじまったわけではありません。
  正しくは、どこから議論を始めなければならないのかというと、それは「ポツダム宣言」です。ポツダム宣言は一九四五年七月にアメリカ、イギリス、中華民国の三国が大日本帝国に対して発した降伏勧告の宣言です。
  さきほど紹介した入江俊郎の本にしても、佐藤達夫の本にしても、その他もろもろの本格的憲法研究書はすべてポツダム宣言から記述をはじめています。ちょっと程度の低い本はすべてポツダム宣言を外したところから議論をはじめています。しかし、ポツダム宣言と日本国憲法との関係を知らないと、憲法論議の根幹は理解できません。そのくらい大事なポイントなのに、いまの若い人たちはポツダム宣言など、ちゃんと読んだことがないから、その宣言がもつ意味もわからず、低レベルの議論にとどまっています。
  もうひとつ日本人のほとんどが誤解している重要なことをいっておくと、本当の終戦記念日は八月十五日ではないということです。
  八月十五日が終戦記念日だと思っているのは、世界中で日本人だけです。日本人以外の人が終戦記念日にしているのは、九月二日です。
  九月二日がどういう日かというと、戦艦ミズーリ号上で、日本が降伏文書に署名した日です。あの署名で、正式に戦争が終わったんです。だから、世界中でその日を戦争が終わった日として、今でも祝っているんです。
  では、八月十五日というのはどういう日かというと、天皇の玉音放送があった日です。玉音放送とは何かというと、天皇による終戦の詔勅の読み上げです。国民向けのメッセージです。それは日本人にとっての戦争の終わりになっても、国際的な戦争の終わりにはならないということです。
  終戦の詔勅に何が書いてあったかというと、ポツダム宣言を受諾することに決めたということです。
  詔勅の日付はいつかというと、八月十四日です。実際、八月十四日のうちに、それを御前会議で決めて、すぐそれを無電で連合軍側に通告しています。しかし、戦争というのは、相手があってやっていることだし、前線という戦闘現場があるから、一国の中央政府が戦争をやめたと決めても、すぐ戦火がやむわけではありません。
  翌十五日、連合国側はスイス政府を通じて、この通告を日本政府の宣言受諾と認めるから、このあと停戦打ち合わせのため、特使をマニラの連合国軍司令部(最高司令官としてマッカーサーがいた)にすぐ送れといってきます。
  そこで、陸軍参謀本部の河辺虎四郎中将が全権となってマニラに飛び、終戦の手順の打ち合わせを八月十九日から二十日にかけて行います。基本的には、まず日本軍が完全に戦闘行為を停止する。それを確認してから連合軍が戦闘停止する。しかし、日本側は、停戦命令が前線まで届くのに、内地は四十八時間、南部諸地域は六日から十二日、南方地域の一部はもっとかかるかもしれないと了解を求めています。
  九月二日の降伏文書調印は、完全戦闘停止にそれだけの時間がかかることを見越して設定された最終的な文書調印の日です。この同じ日付で天皇から、「ポツダム宣言を受諾したのだから、日本国民は世界のどこにいようとも、全員が連合軍への戦闘行為を直ちに止め、武器を置け」と、最終的な戦闘行為の停止命令(詔勅)を出しています。
  そういう意味でも、九月二日が本当の終戦の日なんです。
 

ポツダム宣言受諾から新憲法づくりははじまった
 
日本でよくいわれることで、ソ連は八月十五日をすぎても戦争をすぐにやめなかったのはケシカランという話があります。しかし、八月十五日の天皇の玉音放送は天皇が日本人向けに行った放送でしかありませんから、ソ連軍に対する効果がすぐ表れないのは当然の話です。戦争を止めるのにも、現場の当事者双方の合意とそれぞれの国の部内の手続きが必要です。すべての手続きを経て、完全に戦争を終わりにしたという確認の儀式がミズーリ号上の調印式だったわけです。
  ではこの降伏文書に何が書いてあったのかというと、ポツダム宣言を日本が受諾したということ、そして、宣言の各条項をそのとおり誠実に履行するという誓約です。ポツダム宣言の実施を監督するために、連合国軍最高司令官が日本にやってくるが、その一切の命令を日本政府も軍もそのまま受け入れるという誓約です。要するにここでも話の中心はポツダム宣言なんです。
  そのポツダム宣言の中に、どうしても憲法を改正しなければ履行できない条項がいろいろあったんです。ここから憲法改正の話がはじまるんです。法制局では、ポツダム宣言受諾とともに、大日本帝国憲法のどのあたりをどう直さなければならないかという検討を早々にはじめています。旧憲法改正=新憲法づくりなんです。
 

政府が死守しようとした「国体の護持」とは何か
 
  ここから先は話をわかりやすくするために、細かい点は省き、おもな経緯についてだけ述べていくことにします。
  ポツダム宣言は、要するに、戦争を続ける日本に対して、連合国が、こういう条件を呑めば戦争を止めるぞという通告でした(七月二十六日)。呑まなければ最終的大攻撃を加える。そうなったら日本は壊滅するぞという警告でした。それに対して日本は、はじめは「黙殺する」とだけいって無視しました。ところが、広島に原爆が落とされ(八月六日)、それに続いてソ連の参戦と長崎原爆投下が同じ日(八月九日)に起きた。このままでは日本の壊滅が必至の情勢になったので慌てて、ポツダム宣言を呑むから戦争をやめてくれということになったわけです。受諾は御前会議で決めたのですが、最初の御前会議(八月十日)では、丸呑みの受諾を拒否しました。そして「こういう条件であれば呑む」と、ひとつの条件をつけました。それが「国体の護持」だったわけです。
  国体護持とは何かというと、天皇制を護持するということです。天皇制イコール国体なんです。具体的には大日本帝国憲法の第一条から第一七条までの天皇条項を護持することなんです。その十七条に、天皇制のエッセンスがすべて詰め込まれています。たとえば第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総〓シ……」とあります。これは要するに天皇が政治のすべてを司るということですが、このように政治的パワーをすべて天皇に集中させる国家の枠組みが、国体の本質なんです。
  上杉慎吉という、戦前期の国家主義的憲法学者としてもっとも有名な東大の教授がいます。上杉の国体論『国体精華乃発揚』に、次のようなくだりがあります。
「天皇は大日本をしろしめすす≦、≧め≦、≧ら≦、≧み≦、≧こ≦、≧と≦、≧なり、統治者なり、万機ことごとく天皇に出≦い≧ず、主権は一人に存す」。日本国の主権は天皇にしかないんです。「日本臣民は天皇に服従するをもってその本分となす、臣民の天皇に服従するは国体なり」「天皇の意思は最高なり、国内一切の意思はこれに服従す、独立なり、天皇の意思を抗拒するの意思の存在を容≦ゆ≧るさず、(中略)天皇の意思を制限する者あることなし」
  要するに、天皇の絶対支配体制が日本の国体だったということです。日本の政治的主権者は天皇だけであって、あとの国民は全員が臣民でしかない。天皇に従うだけなんです。明治憲法下でも、いちおう司法、行政、立法の三権分立体制がありましたが、そのすべてが天皇の下にありました。天皇は統治権を総〓し(第四条)、行政各部の文武官すべてを天皇が任命(第一〇条)していましたから、官僚はすべて天皇の官僚でした。行政は天皇の完全支配下にありました。司法官も天皇が任命し、裁判はすべて天皇の名によって行われました。立法権もまたすべて天皇に属していました。議会があっても、議会が立法権をもっていたわけではありません。主体的に独自の立法ができたわけじゃないんです。議会にできることは天皇の立法行為に協賛することだけでした(第五条)。また、陸海軍の軍部も天皇がこれを直接統率していました(第一一条)。軍に関することはすべて天皇の大権のもとにあり、政府も議会も軍関係にいっさい口が出せませんでした。
  要するに、大日本帝国憲法の国体のエッセンスを一口で言うなら「上≦かみ≧御≦ご≧一≦いち≧人≦にん≧」の世界だったということです。上に完全なる主権者として天皇がただ一人いて、あとは全員が臣民として天皇の意思に従う存在だったということです。
  こういう国家の基本構造をガラリと変えてしまったのが新憲法です。主権者が天皇から国民に替わり、新憲法第一条に「(天皇の)地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあるように、天皇の地位ですら、国民の意思で決まるということになったわけです。
  これが旧憲法と新憲法の最大の違いといっていいと思います。天皇主権の憲法が国民主権の憲法になったことです。
  この憲法の天皇規定は、昭和二十一年の一月一日に出された、天皇のいわゆる人間宣言と対をなすものです。人間宣言は、天皇の位は「神話と伝説」によって超人間的超歴史的に決定されているという伝統的考え方を否定しました。「天皇を以≦もつ≧て現≦あき≧御≦つみ≧神≦かみ≧とし且≦かつ≧日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有す」という考えを「架空なる観念」としてのけるものでした。
 

天皇の絶対権力を支えていた「神話と伝説」
 
  実は、旧憲法の天皇主権説的国体論のすべてが、このような「神話と伝説」の上にのっかったものでした。先の上杉慎吉の『国体精華乃発揚』は、なぜ、天皇が絶対的な権力を持つのかを解説してこう書いています。
「天祖天≦あま≧照≦てらす≧大≦おお≧神≦みか≧皇≦み≧孫瓊≦に≧瓊≦に≧杵≦ぎの≧尊≦みこと≧を斯国に下し給ひ……」。いちばんの根拠は、天皇が天照大神の子孫だということなんです。天孫降臨伝説なんです。「天皇は天神なり日神なり現人神なり」。日神というのは太陽神ということで、天照大神のことです。「天皇無ければ国家無し、天皇無ければ臣民も無く領土もまた無し」。天皇が無いとなぜ領土も臣民もないのかというと、日本列島も日本国も、高天原の神々の国生みの伝説によってつくられたものだからです。
  要するに天皇の絶対権力の根拠は、このように完全に「神話と伝説」の上にのっかっていたんです。しかし、それを天皇自らが人間宣言で否定してしまうと、では天皇とは何なのか、天皇を天皇たらしめているものは何なのか、天皇に国家のシンボルとして国事行為を行わせる根拠は何なのかという難しい問題が出てきます。そこで「主権者たる国民の総意でそうした」という新しい現代的な神話をつくり出し、その上に天皇制をのせたわけです。
  これで、天皇制そのものは形式的に維持されたけれど、このように天皇制の中身が変わってしまった時、これでも国体は護持されたといえるのかという問題が生じます。
  もし「国体」なるものの本質を、上杉慎吉が言うような意味、つまり、「上御一人」の絶対的権力支配ととらえるなら、明らかに国体は護持されていないわけです。しかし、天皇制の歴史をふりかえった時に、天皇が国民のはるか上のほうにいて政治的絶対権力者としてふるまっていた時代はあまりありません。そのような時代の大半は大日本帝国時代であって、日本の歴史の大部分においては、天皇は政治的権力者でなくむしろ文化的存在者としてあったわけです。そういう時代の天皇と国民の距離はそんなに離れていなかったと考えられます。その時期の天皇―国民関係は、人間宣言の中の、「朕と爾≦なん≧等≦じ≧国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ……」に近い状態にあったと考えられるわけです。そういう状態こそ日本の国体の本質部分と考えれば、国体は憲法が変わってもいまも護持されていると考えることもできるわけです。
  実際、天皇機関説の美濃部達吉は、戦後まで生き残って、新憲法の解説書を書いていますが、そこではいま述べたような見解をとっています。つまり、国体を上杉慎吉的に解釈すれば、国体は明らかに変更されたといえるが、「天皇は国民を子のごとくに親愛し、国民は天皇を父のごとくに尊す」のほうが本来の国体であると考えれば、国体は象徴天皇制になったいまでも護持されているといってよいと述べています。
  戦争前、ナショナリズムが異常に高揚して、国粋主義が支配的だった時代に日本を支配していた上杉慎吉的国体論の立場からすると、国体は大変革されたといえます。こういう事態をさして、南原は、天皇の人間宣言によって、一種の宗教改革が日本に起きたのだととらえました。これで日本人の精神世界が、神話的束縛を脱して大きく近代化したと考えました。
 

「八絋一宇」=「世界征服」という夢
 
  天皇の人間宣言で「架空の観念」としてのけられたのは、天皇神話だけではありません。大東亜戦争のイデオロギーもまた否定されました。人間宣言で「日本国民が他の民族に優越した民族で、いずれ世界を支配すべき運命にある」と表現されている思想は、大東亜戦争の「八紘一宇」のイデオロギーをさしています。若い人にはとても信じられないことかもしれませんが、あの時代の日本人は、世界全体を一つの巨大な天皇制帝国にしてしまい、天皇が世界の帝王としてそこに君臨するようになることを夢見ていたのです。「世界征服」の夢を本当に描いていたのです。それが「八紘一宇」の意味するところだったのです。そのイデオロギーを「人間宣言」は「架空の観念」と切って捨てました。
  このくだりが何を意味するのかというと、ポツダム宣言の第六項「日本国民をだまし、世界征服の挙に出るという過ちを犯させた人たちの権力および勢力は、永久に除去されるべきである」に対応していたわけです。天皇は自らが世界征服の夢から訣別しているということを早く示さないと、「永久に除去される勢力」の側にカウントされるところでした。
  実はこの時期、天皇の戦争責任の問題をめぐって、天皇をどう処分するのか連合国軍の内部でも意見が大きく割れていました。一方には天皇制を維持して、それを占領下の日本統治の道具として使いたいという立場があり、アメリカがそうでした。一方には、天皇こそあの戦争の最大の責任者であるから、天皇を戦犯として追及すべきだという考えがありました。ソ連、オーストラリアなどが天皇責任追及派でした。
  この立場のちがいは、いってみれば、ポツダム宣言第六項にあった「日本国民をだまし、世界征服の挙に出るという過ちを犯させた人々」の中に天皇をかぞえるのかどうかという問題です。白馬にまたがる大元帥として陸海軍を率い、開戦の詔勅を発し、大きな戦果があるたびにお褒めの言葉(御嘉賞の勅語)を下して軍を励ましていた天皇の行動をどう評価するか、天皇は本当に「日本国民をだまし過ちを犯させた」人々にならないのか、微妙なところがありました。
  昭和二十一年の人間宣言で、天皇が自らの神格を否定し、大東亜戦争の世界征服イデオロギーを否定してみせたのは、このポツダム宣言第六項の適用逃れを狙ったものだったとも考えられるわけです。ポツダム宣言には次のような条項もあります。「日本国民における民主主義的傾向の復活・強化に対するいっさいの障害はのぞかれ、言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せられる」(一〇項)、「戦争のための再軍備を可能ならしめる産業は禁止される」(一一項)、「平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されるを要する」(一二項)。
  これらの条項を見ればわかるように、ポツダム宣言の中身を現実化するためにつくられたのが日本国憲法の具体的な条項だったといえるわけです。こういった基本構造を理解しないと、日本国憲法っていったい何なんだということがわからないわけです。
 

スクープ記事で露見した「国体護持」憲法草案

 さて、先に述べたように、戦争が終わるとすぐに、法制局は帝国憲法改正の準備に入りました。ポツダム宣言受諾で憲法の修正が必至の情勢になったので、具体的にどこを直せばいいのかメモをつくり始めたんですね。
実は、大日本帝国憲法には第七三条に憲法改正の定めがありまして、その手続きに従って生まれたのが日本国憲法なんです。だから、大日本帝国憲法と日本国憲法は、ある意味で継続しているんですね。革命によってまったく新しい国が生まれたわけじゃないんです。
ただ、実際に行われた改正の内容は革命に近いといってもいいほどの大変化でした。なにしろ、天皇主権国家が国民主権国家に変わってしまったわけですから。
法制局の内部で要修正点を議論したあと、今度は日本政府(東久〓宮稔彦内閣)自らが新しい憲法草案をつくりはじめました。これが「憲法問題調査委員会試案」、いわゆる「松本案」(当時、国務大臣だった松本烝治が委員長をつとめた)と呼ばれるものです。
ところが、試案の段階だったこの松本案を、一九四六年二月一日、毎日新聞がスクープしてしまいます。その結果、松本案の「第一章 天皇」の部分、つまり、国体の部分が、実は明治憲法のそれとほとんど変わっていないことが明らかになってしまうんです。
「第一条 日本国は君主国とす」、「第二条 天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行ふ」、「第三条 皇室典範の定むる所に依り万世一系の皇男子孫之を継承す」、そして第四条が「天皇は其の行為に附責に任ずることなし」と、天皇の免責特権です。ちなみに第五条(立法権は天皇大権)は「現状」。つまり大日本帝国憲法のままということです。天皇は統治権も立法権ももつということでした。
逆に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という帝国憲法一一条の天皇の軍事大権などは「削除」されています。ポツダム宣言は、軍の無条件降伏を要求するとともに、日本国の戦争マシーンの解体を要求していましたから、軍事がらみの部分はすべて削除になったわけです。しかし軍事的側面以外の国体の基本構造が松本案では旧憲法とほとんど変わっていないことが毎日のスクープ記事によって露見したわけです。

天皇を護ったマッカーサー

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は松本案の内容に怒り狂います。これを読んだGHQの高官は、松本案は民主主義の原則に反するから受け取れないとはっきりいいます。おそらく、松本案をつくった人々は、日本はポツダム宣言を国体護持を条件に受け入れたのだから、国体に関する部分は、軍事をのぞくとそのままでよいと考えたのでしょう。しかし、GHQの考えは逆でした。
天皇制そのものは維持するけれど、その性格を根本的に変えて、民主的なものにしなければならないとGHQは考えていました。封建的な君主制が続いてはならないから、貴族制、貴族院の廃止も求めていました。天皇からいっさいの政治的パワーをはぎとり、天皇が政治的主体性をもって行動することが何もできないようにする。政治的決定にいっさい関与できないだけでなく、誰からも政治的利用の対象にならないよう、政治性ゼロの存在にしてしまおうと考えていました。こうして、天皇を純粋な国家的シンボルとして、国家の儀式的部分だけにその活動領域を限ってしまう象徴天皇制が生まれたわけです。
ですから、天皇に旧憲法の統治権、立法権の部分を残す松本案は、絶対に受け入れられないものでした。実はこの頃、日本の民間の私的なグループが新憲法はこうあるべきだという議論を盛んに行っていました。松本案などより民主的な案がいくつも出ていたんです。そういう案が発表されるたびに、占領軍はそれをすぐ翻訳してウォッチしていました。占領軍の基本方針は、日本人に自分たちの自由な意思で、ポツダム宣言に即した内容の新しい憲法をつくらせたいということでした。幾つかの試案を見るうちに、「あ、この分だったら結構、新憲法を日本人に任せておいてもちゃんとつくるんじゃないか」と思いはじめていたんです。
ところが、そこに出てきた松本案があまりにも旧態依然たるものだったため、占領軍は慌てました。というのは、このとき連合国の間で、極東委員会という占領政策委員会をつくり、それをGHQの上に置くという合意がなされていたからです。極東委員会では占領政策をハードにした上、戦犯裁判で天皇の戦争責任を問うべしなどとするソ連、オーストラリアなどの強硬派が強い勢力をもつことになりそうでした。
極東委員会の正式発足を待っていたのではアメリカの思うような方向(日本に融和的、天皇制存続)の憲法をつくることができない。日本側を指導してほどよい憲法をつくらせるのは時間がかかりすぎる。この上は、自分たちで草案をつくって日本人に与え、それをベースに日本人自らの憲法案をつくらせればよいという方向に大転換したわけです。
そして、昭和二十一年二月十五日、英文の草稿(マッカーサー草稿)を日本側にボンと渡しまして、松本案はぜんぜんダメだから、こういう草案をつくった、新憲法は基本的にこのような内容でいけと指示したわけです。多少の文言は変えてもよいが、ここに盛られた諸原則(プリンシプルズ)を変えることはまかりならんというわけです。
そして、この憲法草案を受け入れるかどうかが、天皇のこれからの身分に重要な意味をもつのだと、GHQのある高官(ホイットニー少将)がこういいました。
「あなた方が御存知かどうか分かりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。これまで最高司令官は、天皇を護ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。しかしみなさん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、日本が連合国の管理から自由になる日がずっと早くくるだろうと考え、また日本国民のために連合国が要求している基本的自由が、日本国民に与えられることになると考えております」(『日本国憲法制定の過程』より)
要するに、この憲法を受け容れるなら、マッカーサーは天皇を護るというわけです。マッカーサーは、昭和二十年九月二十七日の会見以来、天皇のファンになっていましたから、これは本気でいっているわけです。
そして、この憲法を受け容れるなら、「占領が終わる日が早くくる」といっている点に注目すべきです。これが何を意味するかといえば、ポツダム宣言では、日本が宣言を完全に履行する日まで占領を継続するが、その履行が確認されたら、占領を解くとしていました。戦争国家であった日本が完全な平和国家に生まれ変わり、自由も民主主義も欠如していた専制国家の日本が完全に自由と民主主義の国に生まれ変わった、と確認されたら占領を解くということです。
要するに、この憲法には、自由と民主主義の原則がすべて盛られており、また、これ以上の平和主義国家はどこにもないというほどの平和憲法になっているから、この憲法が定着すれば、それがそのままポツダム宣言の完全履行になるということなんです。結局、日本側はこの草稿を受け容れ、これをベースに現行の日本国憲法をつくったわけです。

安倍首相「素人」発言の不見識
 
 周知のとおり、安倍首相などは、その経緯を非常に問題視していまして、たとえば、四月二十四日に自民党が開催した「新憲法制定推進の集い」でも「現行憲法を起草したのは、憲法に素人のGHQの人たちだった。基本法である以上、成立過程にこだわらざるを得ない」といっています。つまり、あの憲法草案をつくった人たちが、あたかも法律的知識のない素人で、それがそそくさとつくってしまったので欠陥憲法ができてしまったかのような趣旨の発言を繰り返しています。
それは全然違うんです。あの草案を実際につくったのは、全部法律の専門家です。それこそハーバード大学の法科大学院を出て、法曹資格をとり、プロの弁護士をしてきたような連中が陸軍の内部にちゃんと法務官として在職していたわけです。
それに、GHQがろくに検討もしないで、アッという間に憲法草案をつくってしまったかのような発言がありますが、それもぜんぜんちがうんです。たしかに、最終案を煮詰める過程は二週間ほどでやっています。しかし、その過程に入る前に、実は数年間にわたる先行研究があるんです。
戦争が終わったあと、日本の体制をどう変えればいいのかという研究は、戦争がまだ激しくつづいている昭和十八年くらいからさかんにすすめられていました。アメリカは戦争に勝つことを確信していましたから、戦争が終わったらどうするかの研究をずっと先行させていたのです。
それに、憲法のような大きな法律は、どんな天才でも、それを丸ごと自分の頭からひねり出してしまうなどということができるものではありません。あの憲法もいろんな先行法思想の流れが合流してできあがったものです。
たとえば、日本の現行憲法の中でいちばん大きなブロックは第三章の「国民の権利及び義務」で、この章は、憲法全百三条のうち三十一条と、ほとんど三分の一近い比重を占めています。このうちの権利の部分、とくに基本的人権の部分は、非常によくできた部分であって、国際的にも評価が高いものです。ここは憲法の中でも、特別扱いされている部分で、憲法第九七条で次のように定めています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」
これらの条項は、あるとき、ある国の法律専門家が恣意的につくりあげた条文ではないということです。人類の自由獲得の長い長い歴史の結果得られたものが、エッセンスとして煮つめられたものだから、これは人類共通の遺産ともいうべきものだ。それがここにあるのは、人類全体から信託を受けてここに置いてあるということだから、みだりに手をつけるなというわけです。この部分は憲法の他の条項のように、そのときの政権が自由に改廃できるものではないといっているわけです。
この部分は一九四八年の世界人権宣言とほとんど重なっていることでわかるように、本当に人類の共有資産といっていい部分なんです。こういうものは、安倍首相のいうような、法律の素人が集まって、アッという間にでっちあげてしまえるものではまったくないわけです。

人権と自由をワン・パッケージで

 ここには自由と人権について考えを深めてきた人類の英知が結集しています。先のGHQ高官の言葉にあった「日本国民のために連合軍が要求している基本的自由」とは、こういう自由をさしているのです。アメリカは第二次大戦を、自由主義諸国の連合軍と、日独伊三国の枢軸国との戦争ととらえ、それはとりもなおさず、「自由の守り手vs自由を抑圧する全体主義国家群」との戦いであると位置づけていました。
だからアメリカは、戦争に勝ったら真っ先にやらなければならないことは、「自由」の味を知らない日本人たちに、自由を与えることだと思っていました。占領がはじまってすぐに次々と繰り出されるGHQ指令によって、政治犯の釈放、治安維持法廃止、特高警察廃止などなど、自由を抑圧していた制度、組織が次々に改変されていったのは、こういう理由によるものです。しかし、日本政府に、もっと国民に自由を与えよといっても、専制主義支配に慣れきった日本の指導者たちは、それができなかったわけです。自由主義的憲法をつくれといっても、それができずに松本案のような旧態依然たる憲法案しかつくれなかったわけです。
そこでこうして、憲法草案という形で自由と人権をワン・パッケージにしたものを政府当局者に与えたわけです。しかし、それがうまく国民に伝達されるのかどうかわからないと不安に思ったGHQ高官は、草案を渡すときにこういっています。
「最高司令官は、あなた方(当時の政権トップ)が、この草案をあなた方がつくった案として国民全体に示すべきだと考えています。もしそうすれば、あなた方を総司令官は支持します。しかし、もしそうならないなら、最高司令官の側から、直接あなた方抜きで国民全体にこのような案があると示してしまうということを考えています」
要するに、こういうことなんです。GHQとしては、この草案を憲法にすることで、ここに盛られた人権と自由を全部ワン・パッケージで日本人全体に与えることを望んでいた。それを、日本政府が「これは日本政府の発案したものだ」としてやるならそれもよいが、この草案を憲法にしたくないというなら、政府抜きで、占領軍が国民に直接呼びかける。そうなったら、あなた方は、政治的に生き残れないでしょう、こういうことを言外に秘めていたわけです。高官はこう付け加えました。
「この憲法草案を受け容れることが、あなた方が権力の座にとどまって生き残るただひとつの道です」
これはほとんど政治的脅迫といってもいいと思いますが、時の政府の代表者たち、議会の代表者たちは、GHQ高官の警告を受けて一も二もなくこの草案に賛成し、これを政府案ということにして、GHQ草案をほとんどそのまま(少々の修正は受けたが)、日本国憲法にしてしまったわけです。

“押しつけ憲法”こそが日本繁栄の基盤

 事実関係はほぼこのとおりですから、これを“押しつけ”といえば押しつけです。しかし、これが日本国民にとって許せない押しつけであったかというと、まったくそうではないと思います。
この押しつけがあったおかげで、我々はいま、世界に誇ることができる歴史上最良の憲法をもっているわけです。世界のどこに出しても恥ずかしくない内容の憲法をもっているわけです。この憲法のおかげで、戦後日本というレジームは、日本の歴史上最大の成功をおさめ、大日本帝国の全存続期間よりも長い期間、平和のうちに繁栄を続けているわけです。
これだけの成功を日本にもたらした戦後レジームは当然これからも守り続けるべきなのであって、ここでそれを破壊してしまう理由はまったくありません。
先だって、東大出版会が発行している雑誌『UP』(UNIVERSITY PRESS)三月号に私は「南原繁の言葉と戦後レジーム」という文章を寄稿しました。そこで私がいちばんいいたかったのは次の一文でした。
「安倍首相は、戦後レジームをネガティブに捉え、これを根本的に変革してしまうことこそ、日本国のために最もよいことと考えているようだが、私の歴史の見方は安倍首相とは正反対である。戦後レジームこそ、数千年に及ぶ日本の歴史の中で、最もポジティブに捉えられてしかるべきレジームだと考えている。
はっきり言って戦後レジームをポジティブに評価できない人は、歴史を知らない人だと思う。あそこで(一九四五―四六年)戦前レジームから戦後レジームへの一大転換が起きなかったとすれば、日本にはいまでも明治憲法レジーム、大日本帝国レジームが続いていたことになる。それが国家レジームとしてどれほど狂ったレジームであったか、ある年代以上の人にはいまさら言うまでもないことである」
最近若い世代で憲法改正派が増えているということは、ある年代以上の人には「言うまでもない」自明のことが、いまの若い人たちにはまるで伝わっていない時代になってしまったということだと思います。
私が、日本国憲法、とくに憲法第九条がつくりだしてきた戦後レジームをなぜそれほどまでに積極的に評価するかというと、それはこの憲法が、日本という国を、歴史上もっとも繁栄させてきたからです。戦後レジームこそ、日本の繁栄の基盤だったからです。
どういうことか簡単にふれておくと、政治というのは、要するに一国の社会が全体としてもっているリソースをどう配分していくかを決定するプロセスです。ここでいうリソースには経済的リソース、物質的資源としてのリソースなど、さまざまなリソースがありますが、現代の国家にとっていちばん大事なリソースは人的資源、ヒューマン・リソースです。人的資源を、社会のどこの部分にどう配分するかの決定はいちばん下のレベルでは個人個人が自己決定でやっていますが、大きな枠組的配分は政治が動かしています。それによって、その時代の日本の栄枯盛衰が決まるといっても過言ではないほどそれは重要なリソース配分です。
戦後の日本の社会システムが戦前と大きく異なるのは、この経済的リソースやヒューマン・リソースの配分において、戦前の日本で最も大きな比重を占めていたリソースの配分先、すなわち軍事関係に回っていた分が、戦後はすべて民生に回ったという点です。その結果、日本は経済資源と、人的資源のほとんどすべてを民生に投入することができた。これが戦後日本の、あれほどの未曾有の経済復興と経済成長による国家的繁栄をつくったわけです。
戦前の日本では平時、全予算のおよそ半分が軍事部門に投入されていました。戦争になればそれこそほとんどすべての予算や人材が戦争に注ぎ込まれたわけです。もしも戦後の日本が早くから軍を復活させ、そこに多くの経済的リソース、ヒューマン・リソースを投入し続けていたら、日本にもアメリカのような軍産複合体制がとっくにできあがっていたでしょう。
いまのアメリカを一言でいえば、「戦争マシーン」国家です。アメリカのサイエンスもテクノロジーも、実は半分以上が軍事関係の予算や人材によってまかなわれています。とくにロボット、核融合、スーパーコンピュータ、宇宙航空といった先端技術は半分どころかほとんどが軍事予算でまかなわれています。軍からの資金援助まったくなしで、世界とがっぷり四つに組むだけの科学技術力をちゃんと発達させた国は世界中で日本だけです。
軍産複合体を存在させずに経済発展をとげたという意味では日本の成長モデルは世界に誇れる仕組みなんです。そしてそれは何度もいっているように、いまの憲法、とくに第九条という戦後レジームがあったればこそ可能だったわけです。
ところが、いまやそのレジームを捨てようという人たちが国の権力の中心に座る時代になってしまいました。あの人たちは、本当の意味で、国家の繁栄とか、繁栄と憲法の関係といったことがわかっているんでしょうか。

「憲法への不信」を四十年以上前から予言していた南原

 さてここで、さきほど紹介した、『文化と国家』という本にのっている、南原繁が貴族院議員として、憲法の審議中に行った質問と演説について述べておきます。
実は、その議会で政府の憲法草案に対して反対したのは共産党と南原繁だけだったといわれています。ほとんどの議員は、占領軍から出てきた憲法草案だからということで、みんな一斉にそれを認める方向でまとまってしまったんです。
共産党は独自の価値観をもって独自の草案をつくっていましたから反対というのはわかるのですが、では、戦後憲法レジームの枠組みづくりに最も大きく寄与したはずの南原が草案のどこに反対したのかといいますと、それは九条の問題とか、基本的人権の問題とか、個々の条文の内容や中身ではなく、憲法改正の手続きの問題だったんです。
憲法というのは、国家のいちばんの基本法、つまりはレジームの根本法典であるから、これはやっぱり国民の意思をきちんと確かめなければいけない、その点をゆるがせにしてしまうと、後世で必ずその点が問題になるだろうという趣旨の主張を南原はしたんです。
一九六二年、南原は有志の学者らとともに結成した「憲法問題調査会」で、最初に少しだけふれた「第九条の問題」という論文を報告、発表しています。これは日本国憲法、とくに憲法九条の問題を考える時には必読の文献なのですが、そこで次のようなことを言っています。
「憲法改正の経緯を国民の眼から覆い隠して置くと、十年、遅くとも二十年のうちに、その真相が判明するに到ったとき、国民の間に新憲法に対する不信や疑惑が生じはせぬか、(中略)それを外部の強制によったものとして、憲法調査会の中ですら、新憲法無効論があり、あるいは同じ理由から必然に憲法の全面改定論を叫ぶものもある」
現在、安倍首相らが盛んにいっている、この憲法に対する不信の問題を、南原はじつに四十年以上も前から予言していたわけです。
いまの憲法が連合国からの押しつけであったことは、これまで話してきたことからわかるように、ある意味では事実です。ただし、念のためにいっておくと、新しい国会が新憲法のもとで開設された直後に、マッカーサー司令部は、いったん成立した新憲法に修正する点があるかどうかを、わざわざ日本政府側に確認しているんです。そして、衆議院も参議院も再改正の必要はないとちゃんと回答しているんです。つまり、日本には再修正のチャンスがあったのにそのままにしてしまったんです。このあたりは日本人のカルチャーといいますか、ことを荒立てまいとする伝統的心理規制がはたらいたんでしょう。そのために南原が懸念したような手続きの問題がずっと残ったままになったんです。

憲法に関しては、まだまだいわなければならない

 そのとき、南原は、ポツダム宣言に記された「日本の最終政治形態は日本国民の自由に表明された意思によって決定されるべき」という条項を引き合いに出して、国民投票をやろうという提案をしたんです。そういうことをいったのは彼ひとりだけでした。
もし、南原のいうとおりに、そのとき国民投票を行って日本国民の意思を確認していたら、文句なしに、当時は新憲法支持者が圧倒的という結果が出たでしょう。そうしていれば、何十年もたってから、今日のような事態をまねくことはなかったでしょう。
――憲法に関しては、まだまだいわなければならないことがあるので、来月もう一回書く。
(以下次号)

南原繁元東大総長(中)らが築き上げてきた憲法をはじめとする戦後レジームを安倍首相は丸ごとつくり直そうとしている

※本稿は07年5月6日、丸善本店で行われた立花隆講演会「現代日本の原点を見つめ直す 南原繁と戦後レジームの意味」の内容を加筆・修正したものです


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