立教全カリ 第六回講義

現代における基礎的な教養の1つは「プレゼン能力」 

前回、出してもらった印刷博物館のレポートの中から何人か選んでここの教壇に出て発表してもらうということを言いましたが、これをやってもらうということは非常に重要なことでして、現代における教養はどうあるべきかということをずっと本(『東大生はバカになったか』)にも書いてきたし、ここでもしゃべってるわけですが、あのとき本に書かなかったことがあります。というのは、この本を書いた当時は、そういう(発表する)能力はあまり社会的に問題視されてなかった。 

今の時代、大学を出るからにはこういう能力を身に付けなければいけないという基礎教養的なものに、「プレゼン能力」というのがある。これ(プレゼン)の基本は、人前に出て、ある一定の短い時間で、しかるべき内容をきちんと話して伝えるという、そういう能力です。

その人が基本的に何か言うことがありそうかどうか、そのポイントで発表する人を選びました。発表する時間は1人4分としますが、人間4分あるとものすごい量を話せるんです。基本的に人間1分あったらどれだけ話せるかというと、早口じゃなくてゆっくり標準的にしゃべって、1分間300字なんです。これはどういう数字かというと、NHKのアナウンサーがちゃんと内容のあることを、ちゃんと聞く人に通るようにしゃべるために原稿を用意しますよね、それが1分間300字なんです。電話代も3分過ぎると跳ね上がると同じように、大抵のことは3分あればしゃべれるんです。相当内容のあることが3分あれば伝えられます。

ものを書くということ  

ものを書くというのはいろんな意味で難しいんです。本当にまとまりのあるものをきちんと書くためには、この前も言ったように、書き出しと言うのが、とっても大事です。書き出しの数行で、きちんと相手を捕まえるような、そういう書きっぷりをしなくてはいけない。 

 3回目のレポートですが、これは基本的にどこに行って何を見ても良いです。このレポートで基本的にきちんと書いてもらいたい事は、「なぜ自分がそこを選んだのか」です。つまり行くところはいくらでもあるわけでしょ。でも、自分がそこを選んだという、その理由をまず頭に書いてください。そこで見たもの、その他もろもろ、自分が感心したもの、どういうふうに自分が感心したのか、ということを書いてください。 

書くからには、それが他の誰でもなく、その人が書いたという個性的な側面がちゃんと出てくることが必要なんです。それはどんなに内容が間違ってても、要するに、まず個性がちゃんとそこに出ているかどうか、これが非常に大事なことです。何かをひき写したようなことを書いても、それは意味がないわけです。 

それから、文頭のところで全体図をちゃんと示して、かつ、それがどういうふうに展開されるかということを書くのはとても大切なことです。 

 それと、前も言った通り、提出する前に必ず一度プリントアウトして読み直すことです。これは非常に重要なことで、それをするかしないかによって文章の質が格段に違います。 

 僕は日常的にものを書いてそれを人に読んでもらうという、そういう職業についてもう何十年にもなって、かれこれ百数十冊ぐらい本を書いているんですが、それを書く時に、それはもう要するに、「直し直しの連続」なんです。1回プリントアウトしてそれを自分が客観的に読むと、ここ直したいというところが必ず出てくるはずです。そういうことを僕ら職業としてものを書いている人間は、ものすごくやるわけです。それはみんなが想像する以上にやるわけですね。 

例えば今僕は月刊誌に2つぐらい書いているんですが、1つの月刊誌が200字原稿用紙(ペラ)50枚なんです。もう1つの月刊誌がペラ70~80枚費やしています。これは雑誌になった時に相当のページ数になるわけです。それで、これを仕上げるまでにものすごい時間とプロセスをかけまして、そのプロセスの半分くらいは、いや半分以上かもしれない、「直し」なんです。1回書いてそれをプリントアウトして、直しをいれて、それを何度もやるんです。10回以上はやります。それぐらい直しをいれると初めて、人に読ませても良いやという文章になるわけです。 

 いずれ必ず、ここのレポート程度ではないちゃんとしたものを書いて提出するということが、その人の人生を左右するようなものを書くという機会が、この先何度もくるはずです。その時に、そういうプロセスをちゃんと経て、本当に人に読ませるに足るものを書けるかどうか、ということが一番大切なことです。

要するにこの授業でやろうとしているのは、「現代における新しい教養というのは何か」ということを実験的にやろうとしている部分があるわけです。その1つの基礎、最も基礎的な部分が、ものをきちんと書くということなんです。ものをきちんと書くためには、今言ったように、1回書いてそれを客観化して、直しをいれてという、それを繰り返すことなんです。 

もう1つは、さっきも言ったように、ある一定の長さのものを書く時に、頭の書き出しというのがものすごく大事なんです。ここで、読んでる人にこの先を読ませるかどうか、つかむに足る書き出しかどうか、ここがとっても大切です。 

僕らの場合でも、ある一定のものを書く時に一番迷うのは、書き出しなんです。何度も何度も直すのは、ここなんです。ここのところがちゃんとできるかどうかによって、そのあと全部が決まっちゃうんです。作業時間の半分ぐらいは、この文頭のところに費やすということがあるわけです。それぐらい書き出しは重要だということを頭の中に入れてください。

文章を書く上でのポイントをまとめると

①「書き出し」の部分に最もエネルギーを使うこと。

②どんなに文章の質が悪くても、まず個性的な側面がそこにちゃんと出ていることが大切

③文頭の所で全体図をきちんと示して、かつ、初めから終わりまでの流れがどのように展開されるかということも書く

④レポートを書き終えたら、すぐ提出するのではなく、少なくとも1回はプリントアウトして、自分で客観的に読んでみる。そして書きなおす

⑤3回目の宿題になっている博物館レポートで特に気をつけて書いてもらいたいのは、「なぜ自分がそこを選んだのか」という、その理由

人間がものを「見る」ということについて  

今日は主としてどういうことをやるのかというと、「見る」ということについてやります。 

人間が知的情報を自分の中に入れるのに、一番大切な役割を果たしているのは、「眼」なんです。だけど、眼が何をどのうように見て、それがその人にどのように伝えるのかという、その見るメカニズムというのは、知られているようで、実は全然知られていないんです。

 人間は何かものを見る時、常に「眼を動かしながら」見てるんです。眼を振動させてるんです。それを「眼振」といいます。これは、英語でいうと「サッカード現象」というんですが、これは観察してみると、本当に眼がゆれてるんです。もうしょっちゅう微妙にゆれてるんです。このサッカードを止めるということが可能なんですが、止めると、見えなくなっちゃうんです。ちゃんと見えなくなっちゃうんです。どういうことかというと、眼を振動させることによって、我々はすべてのものを見てるんです。眼の振動を止めることによって、人間がものを見るというのはどういうことかというのが、だんだん分かってきたんです。  

これは何かというと、この図の一番左側は、被験者に普通に見てもらって、その時の見た画像です。それに対して、一番左側以外の4つの絵は、被験者の眼振を止めた時に左側の画像がどう見えたかという、見た人の見え方なんです。ある人は左から2番目に見えるし、ある人は左から3番目に見えるし、ある人は一番右側に見えるわけです。その見え方は違うんですが、いずれにしても、全体画像の中のある部分しか見えなくなっちゃうんです。そうすると、「H」と見たり「B」と見たり「3」と見たり「4」と見たりするんです。これ本当に全部実験で、こういう見え方をするというのを確認してるんです。 

いろんな風に、視覚情報が欠落しちゃうんです。これは、ちゃんとした見え方(左側の図のような)をするためには、被験者の眼を振るわせるようにしないと、この全体的な認識ができなくなるんです。

それから、人間っていうのは常に何かを見る時に、この眼を振ってるだけじゃなくて、微妙に身体自体も動かして見てるんです。一定の視点を保っているかのごとくありながら、現実の人間が何かを見る時には、必ず身体を微妙に動かして、大きな視点の移動ということもやっているわけです。これが加わって初めて、ものが見えるようになるんです。 

何かを見る時は、変化を与えながら見てるわけです。これがとっても大事なことで、視点を変えないでガチッと固定されただけであると、実は何も見えてないということが、いろんな実験をやることによって分かってきたわけです。

これは眼の研究上ものすごく有名な実験なんですが、これは「歌川広重の版画」なんです。この版画を見てるときの被験者の眼の動きを、微細に追いかけるという事ができる装置があります。この装置を使うと、被験者が実際にはどこを見ていたのかというのが分かるんです。 

そうすると、図2のように、1枚の絵を見るために視線をいろんなところに走らせるんですね。で、割とこの辺りに視線が集中しているということが分かるでしょ。 

それに対して、図3なんですが、少し説明します。人間ものを見るときに、視角っていうのがありますよね。視角は、水平のほうの視角と垂直のほうの視角と2つあります。これは個人差が相当あります。 

図3のこの四角いのは何かというと、被験者に「視角の制限」を与えてるんです。視角に制限を与えるというのはどういうことかというと、四角いものを目の前にぶら下げて、見ようと思ってこっちに目を動かしてみても、そこで四角い障害物にぶつかって見えないようにしてしまうんです。で、被験者の視角を制限したときに、その被験者の眼球がどう動いたかが、図3なんです。制限したときに、その人はもっと外側を見たいと常に思うわけですね。そのために、どんどん視点をあっちこっち動かすわけなんです。眼球部分だけ動かすときもあるし、身体自体を動かすときもあります。とにかく、視点を制限されると、さらにもっと見たいと思って、視点がさまようわけです。 

この実験の結果どういうことが起きるのかというと、図2みたいにちゃんと見ていたものが見えなくなっちゃうんです。こういう風に(実験1の図)欠落しちゃうんです。

もう1つ大事なことは、被験者に広重の版画を見せている時に、「今あなたが見ているものはなんですか」と聞くと、それを説明できないんです。視角制限がないと、これは広重の版画ですと説明できる。しかし、図3のように、視角に制限を与えると、説明できなくなっちゃうんです。自分が今見ているものが何なのかが、分からなくなるんです。

これは、今と同じ実験を別の表現で示したものなんですが、見てもらえばわかるように、常に小さい枠の中でしか見てないわけですね。小さな枠でくくると、こういう(上の図)1つ1つの画像になるわけですね。そういう1つ1つの細かい画像を見て、大きな全体が認識できるかといったら、人間できないんです。つまり、本当の認識っていうのは、全体を見たときに初めてできる。視角というものを限ったとたんに、その全体像が分からなくなるんです。 

この実験に限らず、この視角を限るという実験はいろんな形で何度も何度も行われているんですが、要するに、自分が何を見ているのかが分からなくなるんです。  

人間っていうのは、ものを見る時に常に全体を見ようとしているわけですよね。あるものを見る瞬間においては部分しか見てないにしても、その部分の像を、一定時間視点を変えるとかいろんな事をしながら、小さな部分を総合させることにやって、全体像を復元させるような、そういう見方をしているわけです。

人間ものを見る時に、視点を固定させてみる固視という見方が1つあります。人間この固視の状態は絶対続かないんです。必ずその次に、視点をジャンプさせるんです。跳躍時と固視の時間と2つあるんです。 

もう1つ人間がものを見る時「周辺視」というものも同時にやってるんです。それで例えば読書をしますよね。その時に、この周辺視の部分を止めると、自分がいま読んでいる部分がなんなのかが分からなくなっちゃうんです。人間はこの周辺視があって初めてものを見ることができるんです。 

人間の眼というのは、この周辺情報を同時に入れて、この全体像を見ないと、本当に見たいと思っているものを見たつもりでも、見えてないということが起こるわけです。 

人間っていうのは、いろんな意味で全体のパターンというのを認識した時に初めて、全体が見えてくるのであって、それを分割するようなことをやると、いろんな意味で、実は見ても見えないというか、見たつもりで何も見てないということが起こるわけです。

 

「本当の認識」を得るためには

これと同じ事がいろんな意味で言えます。要するに、あるものを本当に認識する為には、その全体、全体というのは、本当の精密な全体じゃなくて、周辺視野的な、ぼんやりしたものを含んでの全体ですね。 

それで、ここが大事なんです。つまり、中心視的なものの見方だけでは、実は認識できないわけです。周辺視が加わって初めて本当に全体が見えるわけです。しかも、ある特定の部分だけ、そこをいっくらちゃんとやっても、それでは、全体が再構成されないんです。結局、見えないんです。 

同じようなことで、ありとあらゆる認識において、例えば思想の世界とか、どういうカテゴリーでも良いです。いろんなカテゴリーの中において、ある特定の作家のものだけを読んでると、実は、その人は何か見てるつもりで、ほとんど何も見えてない、ということがよく起こるんです。 

だから中心視ばっかりやっても、ちゃんとした認識というのは実は得られないんです。本を読むと言う事にしても、定評のあるこの人のこの本みたいなものを読めば、それさい読めばそれについては何でもわかるみたいな本があるかというと、実は無いわけですね。  

人間が生きていく為に、ものを読む・見る、そういう経験っていうのは、横の幅も、縦の幅も、深さ方向の幅も、いろんな意味で、ある程度の幅の広さというのは絶対に必要なんです。 

要するに教養教育の教養というのは何をやっているのかと言うと、そいうものを与える事なんです。だから、大学のある専門領域に属したから、自分はもうわき目も振らず、そこの先生が教えることだけをウワァ-ッとやって試験の点数は良いですみたいな、そういうことをしても、「本当の認識」というのは得られないんです。必ずもっと幅の広いものを総合的に見るということが、その人の本当の意味での認識を得る為にはぜひとも必要なことなんです。 

そう言うものを与えるものとして実は、教養教育の、この全カリ的な授業がデザインされているんです。一見必要でない、少なくともその人が自分の人生設計においてそういうものまで必要だとは思わなかったものをある程度強制的に何単位取りなさいみたいな形で与えるというのは、そういうことなんです。 

一見無駄なようなことを相当やらないと、人間っていうのは、この世界っていうか、この世の中を正しく認識できるようにはならないということなんです。  

最後に面白いものを見せます。これはサッチャー夫人ですね。これを逆さにするとこうなるんですね。 

要するにですね、この写真は目と口だけ逆さにして合成してるんです。目と口だけなんです。そこだけ逆さにすると、全然変わっちゃうんです。 

人間は要するにパーツの部分だけ、そういう部分的な認識だけを大事にしていると、一番大切な「全体の認識」ができなくなるんです。これはまさにその適例のようなものです。それでは、時間がきたようですので今日はここまでにします。                             (文責:森本和義)